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爵を襲いだ。

三五年には、もっとも難関とされていた「金銀精製の電気分解法」を完成し、この法によって造幣局は精良無

比の金・銀を製出することができたという。三九年、大阪製煉所長となるや、さかんに南米や中国・朝鮮等から

鉱石を輸入し電気分銅法によって処理したので、三菱に莫大な利益をもたらすとともに、わが国の産銅率は飛躍

的に拡大した。大正四年、工学博士の学位を贈られ、同六年新設の三菱鉱業研究所長として東京に転じ、三菱の

理事に処遇されている(

『鹿友会誌』第二十七冊、

追悼録・石田博士小伝

)。

石田の日本鉱業界に尽した業績の心情的基盤には、つねに鹿角の鉱山風土があったに違いない。今も花輪詣館

己)には、同町鍜冶仲間の嘱による博士揮毫の鍜冶屋神「天之目一神」の大石碑が東の三倉山に相対する如

く立っている。なお長子英一郎(

明治三六-

昭和四三年

)は、著名な文化人類学者で日本民族学会会長でもあった。

米沢萬陸(

慶応二-

昭和六年

)は、大欠村に生まれ、戸籍名は万六である。八歳にして父が病没し不遇

(

字古

米沢萬陸

の少年時代を送ったが、明治一五年柴内小学校助訓となり、翌一六年に工部省小坂鉱山寮事務

見習に採用された。この年は小坂銀山の第二次官営とよばれた最終の年で、一七年小坂は大阪藤田組に払下げら

れている。

小坂銀山は慶応以降に開かれた新しい山であり、当時大島高任によるドイツ人技師クルト・ネットーの招聘や、

オーガスチン収銀法の採用などにより、西洋技術の新風に満ち満ちていた。万陸は藤田組採用に際し、躊躇なく

分析係雇を志望し、自ら技術者の道を選んだ。一九年技長に赴任してきた工学士仙石亮

小坂初代所長

のち工学博士

)について

数学・物理・化学・英語その他の新知識をむさぼるように習得したという。