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やがて小坂銀山にとっても、米沢萬陸にとっても大きな転機が到来した。二〇年代に入ると、これまで銀山と

して採掘し続けてきた土鉱が早晩底をつく趨勢にあり、必然的に土鉱の下部の無尽蔵な黒鉱の製錬に移らざるを

得なかった。しかし黒鉱は従来の冶金方法では、複雑な硫化金属特に亜鉛・硫黄や鉄の分離がきわめて難かしい

ものであった。かつ、わが国特有の黒鉱の処理法について、欧米にもその文献はなかった。その黒鉱湿式製錬法

にとり組んだ萬陸は、二七年初めて改良キッス法とよばれる新たな収銀法を発明した。三〇年一月特許第二八三

三号として特許を得た銀分採収法がそれで、日本人による冶金分野での最初の特許権であったという。

この時期、小坂銀山は売山も噂される程の重大局面に立たされていた。二九年三月の土鉱残量は、毎月一〇〇

万貫ずつ採掘すればあと二一カ月分しかなく、加えて世界的に銀相場は下落しつつあった。萬陸は三〇年武田恭

後の小坂

作一

)精鉱課長のもとに同課分析係長、三二年同課乾式製錬係長として、黒鉱精錬技術開発の陣頭指揮

三代所長

をとった。当時の所長(

〓)久原房之助にとっても、萬陸の起用は最後の切札であった。不眠不休の、炉の前

に莚を敷いてごろ寝する日々を続けたのち、遂に三三年黒鉱自熔製錬法の発見に成功した。これは偏えに萬陸と

そのスタッフの竹内維彦一

三三年より精鉱課長、

後に日本鉱業社長

)、青山隆太郎

後に日立鉱

山製錬課長

らの創意工夫と熱意によるものであっ

た。かくて小坂鉱山は三三年より土鉱製錬に終止符をうち、黒鉱の湿式から乾式製錬へ、銀山から銅山への発展

的転換を成し遂げることになった。

二八年久原房之助は藤田組を去り、茨城県の赤沢鉱山を買収し日立鉱山と改称し独立した。四〇年竹内維彦、

後に日立

青山隆太郎は久原に迎えられて日立に去った。次いで小平浪平

後に日立

製作所社長

)、角弥太郎

)、堀哲三郎ら

鉱山所長

も続々あとを追った。かって久原が全幅の信頼をよせ、私的にも特に親密であった萬陸の去就は、全山の注目す