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るところとなった。四一年精鉱課長心得として銅山製錬の最高責任を担った萬陸にとって、自ら心血を注いだ白
熔製錬法の仕上げが当面の急務であった。
四四年、ついに萬陸は久原鉱業に移った。初めの一年間は調査課技師として極秘のうちに、中国地方の鉱山、
瀬戸内の島々、別子四阪島製錬所の調査に当たった。これはやがて佐賀関製錬所の建設につながるものであった。
四五年から日立鉱山の買鉱課長兼分析課長として、買鉱・買山に貢献した。大正六年彼の献策による佐賀関製錬
所が完成し、正常操業に入った。同七年萬陸は製錬所長として赴任、世界大戦後の銅価暴落という危機的状況に
おいて、激烈な買鉱戦を展開しながら佐賀関を磐石のものとした。同一二年、日立鉱山五代め所長となる。その
指揮下において一五年入四間下部を始め品位良好な鉱床・富鉱体の発見、浮遊選鉱法の採用、貧含銅硫化鉄鉱の
採算ペース化など次々と業績をあげ、大不況期にあってなお日立を安泰に導いた。
昭和二年、日立所長のまま、日立電力株式会社創立とともにその取締役となった。翌三年一一月、日立所長を
辞し、東京に居を移した。その辞任は、同年生涯苦楽を共にした久原房之助が実業界を去って政界に身を投じた
ことに、軌を同じくするものであった一
同和鉱業株式会社『七十年之
四顧』、内藤与一『鉱煙一筋』
)。
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