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付、真金山金山
官営真金山
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明治六年二〇月、工部省は、前々年
)の小坂銀山・十和田銀山官営につづいて、大葛金山
年
年
現山
内町
閃肌)とともに隣接の真金山金山を併せて官行とすることとし、鉱山寮大葛支庁を開いた。
真金山金山は古くから槇山金山として聞えていたが、鉱山名の常として縁起よく槇山に真金山の佳字を当てたの
であろう。
小坂や大葛の官営はいずれもイギリス人ゴッドフレーの鉱山調査に基いて行われた。花輪の人小田島由義が、
工部省出仕のところ大葛支庁へ出向を命ぜられ、金山の開発に努力したことはよく知られている。大葛の西洋技
術導入のためにアメリカ人技師カーライルが来山し、製錬器械など設備の充実を図ることになった。七年七月輸
入の諸器械を積んだ蒸汽船が能代港に着き、その大型器械を川舟で米代川を遡行させ、大葛の山許まで運搬する
難事を、小田島由義は苦心の末に成し遂げたという。
一〇年、官制改正によって大葛支所は廃止され、一時小坂分局の所管に移された。一〇年五月、旧盛岡藩主南
部利恭は小坂・大葛一
真金山
を含む
鉱山の一五カ年間貸下げを願出て、許可された。この時旧臣大島高任が委任をう
けて経営全般を統轄した。しかし西南戦役後のインフレィションのため採算がとれず、経営は困難であった。同
年一二月南部家は資金繰りの事情からか、鉱業会社岡田平馬に小坂・大葛の資金調達と製出金銀銅の販売方まで
委任することとなった。
このような経緯から、大島高任と鉱業会社との間にしばしば意見の衝突を生じ、一二年六月、大島の退任によっ