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し、之を黒鉛〓掲に移して溶解を加へ、然る後之を灰吹銀となす。尚其汚物を除去するか為め、又之を溶解し大約量を定
めて鋳形に盛り、始めて鋳形精銀となる。(以上は開業以来の製煉法であるが、その焙焼の段階で反射炉中発揮性物の飛
散に伴う銀分の少なからざる飛散があること、人件費薪材食塩硫化鉄等の費用が多額に上ることなどの欠陥があった)
此の如き損害あるを以て、近来焙焼を省き、採掘の礦石を直に溶解に付するの方法を設けてより前記の損害を免れたるの
みならず、滓礦へ銀分の残留する割合も焼礦に比して大差を見ず頗る好結果を得たりと云うべし。其大要は礦量八百貫日
に付四石の割を以て挽屑を混合す、是れ溶解液の〓過を滞渋せしめざるが為なり。右の混合礦を溶解桶に投入し、直に〓
解液を注下し(温湯を以て銅分を溶解せしむることを省略す)て銀分を溶解せしむるなり、其以上沈澱に至るの手続は前
記焙焼礦の製煉に異なることなし。
小真木鉱山が、当時洋式機械をもって装備するに至ったのは、大島道太郎の指導によるといわれる。その状況
を麓三郎氏は「わが国において初めてのキス法による採銀設備、銅鉱製錬にピルツ式熔鉱炉が設置せられた。原
動機として蒸汽機罐三台を有し、また搗鉱所を設けてクラッシャア
機
砕鉱
)、ロール
輪転
機
)、ジッガー、フリュ
ソ汰盤などを装置した。坑内には竪坑を開鑿し捲揚機、排水用喞筒を据付け、原動機として四〇馬力ハルツ式機
罐二台を備えた」としている。
ただ右の洋式装備が、すべて大島在職中に行われたかどうかは疑がわしい。一八年八月、県が求めた現況報告
に対し、辻金五郎代理蜷川幾三は坑夫一〇四人、製煉夫一二六人、諸職工二八人、雑役夫一三〇人と記したあと
に「器械と称すへき程のものなし」と云いきっている。県の作成による調査表(第七表)では一九年使用の汽罐
二基で、それに二〇年一基、二一年二基が加わっている。