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三菱以後の小真木
初め小真木は、露天掘による土鉱の採掘を主としたが、やがて根田沢旧坑の取明けによ
る銅鉱の開発に力を注ぐこととなった。藩政期白根銅山時代の切羽の跡が、すでに米代
約四五メ
川水準下一五〇尺(
〓)余に達していたといわれ、竪坑掘下は出水多量のため難航を極めた。開鑿し了ラ
ートル
一八セ
た三〇〇尺の竪坑は、栗板の六寸(
)乃至八寸角で長方形の枠を据付け、枠外は厚い矢板
土砂崩壊や水の浸
入を防ぐため打ち
ンチ
込む板
約四メ
一・五メ
)をもって覆い、枠内の寸法長さ一丈三尺八寸
)幅五尺(
)、一〇〇尺毎に坑道を通じてい
状の杭
ートル
ートル
た。竪坑口下一〇〇尺めの坑道を疏水道とし、二〇〇尺めの坑道に蒸汽喞筒二台を据え、坑水を疏水道に排水す
る。捲上機は径四分の鋼線を用い、巻上及び喞筒用の蒸汽罐はハルツ形公称四〇馬力二台であったという。
このような本格的な竪坑設備は、例えば第七表「坑場気缶調査表」にみられるように外国製四五馬力の汽罐二
台の使用が二一年から始まっていることなどから推して、同山が岩崎家の所有に帰してから進捗したものと考え
られる。
ての直後の産額は次表(第一〇表)に示すとおりとなっており、以前に比し銅と鉛が飛躍的に増大しているこ
とが注目される。その後しばらくの間産額についての記録が絶えている
弟〓表小真木鉱山生産高(明治〓~〓年)