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長谷川村熊沢硫黄山は、明治八年二月開業、借区坪数六五〇坪、稼人は長谷川村阿部藤助である。採掘方は鍬を用い、坑
天一人一日通常二四〇貫目程を出す。現在の一日使役高男一四人、この賃金二円八〇銭。製煉方法は、鉄釜に硫黄鉱を入
れて煮、硫黄分が溢れ外へ流出し凝結したのを、鉄鎚で砕き再び釜に入れる。その熔解するを待って布製の袋で漉し、また
た凝結したものを釜に戻して煮る。滓は底に残り硫黄分は上にでる。また釜で煮て、始めて純粋の硫黄を得る。硫黄鉱
〇〇貫目につき、硫黄二〇貫目程を製出する。また硫黄二貫四〇〇目を製するに、薪は三尺囘り一把を用い、その代金は
金五銭とする。
硫黄一箇一二貫目につき代金一円、販売地は盛岡でその運送賃金六〇銭、終始陸送で牛を使う。
二〇年六月阿部藤助は事業の拡張を図って、さらに硫黄坑の増借区を出願した。字熊沢ノ内小字湯沼に五、一
七九坪二合、小字小屋ノ沢に二、六四八坪九合、小字中ノ沢に一、七七五坪五合を増区し、新旧坑区を合わせて
万〇、三五三坪六合とした。これらの坑区についてさらに二二年九月、開坑から一五年の期限をむかえること
から「借区継年期願」を提出している。『見聞雑誌』』二二年三月一四日の項に「昨昼専弥来りて硫黄山咄しせり
硫黄山下げに取掛り、谷内村より男女大勢にて、雪車にて行、長嶺よりは舟に積むの趣」と、その盛況ぶりを記
している。なおこの二二年、『宮川郷土読本』年表に「熊沢硫黄山大爆発」、『鹿角のあゆみ』に「焼山の爆丞
によって硫黄の採掘がはじまっている」などの記事がある。
二〇年三月、熊沢硫黄山とやや距てた熊沢官林ノ内小字切留平に五万一、五〇〇坪、同官林小字五舛掛および
玉川官林(
仙北郡
田沢村
ノ内小字曳分にまたがる九万九、五〇〇坪について、花輪町黒沢幸太郎が「硫黄鉱採掘特許
願」を出願し、同年のうちに皆月善六へ名義の書換を行なっている。