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三四年二月には、熊沢官林ノ内小字切留平ノ内隠居沼七万八、七〇二坪について、北海道函館区元町田中和三
が「硫黄鉱試掘願」を出願。同年同月に、同じく小字切留平の内二万八、〇二〇坪について、函館区船場町田村
力三郎が「硫黄鉱採掘特許願」を出願している。
坑区はすこぶる錯綜の様相を呈してき、右のほかにも前掲『鹿角のあゆみ』によると、三〇年五月函館小県勇
三郎が、後生掛大湯沼一帯に採取権をもち、妾・本妻、地獄谷等に排水溝を設けて粗鉱を採取し、気成鉱床のあ
る場所に転々と釜を移動して、極めて高品位の製品を産したという。
また三二年一〇月、東京市浅野総一郎が字切留平地内に、硫黄鉱区五万九、三三〇坪の特許を得、さらに三五
年一月三万三、八二〇坪(
小字湯沼、中ノ沢、
小屋ノ沢の内
)の増区を申請し合計九万三、一五〇坪で経営を行なった。三三年
月の秋田魁新報記事に「熊沢硫黄鉱は三十万円の見込にて諸工場に改良を加へ、又同山より扇田迄山用鉄道布
敷工事中でまもなく落成に至るべし」とある。しかしこの山用鉄道実用の話題は今に伝わっていない。また三万
年三月の頃、同山に労働者五〇〇名許り団結し同盟罷工を起した事実があるという。硫黄山で五〇〇名という人
数は、運搬従事者などすべてを入れてもなお考え難い数字に思われる。三六年四月の秋田魁新報は「浅野熊沢盗
更山、三菱仮戸硫黄山、皆月両国硫黄山の三鉱山あれども何れも皆休山となり」と記し、その後三七年一二月〓
は「熊沢硫黄山が開け(活況をとり戻した)」と報じている
〓お『鹿角のあゆみ』には、四三年毛馬内町柳沢恒吉が、後生掛一帯に権利を取得して石仮戸鉱山とし湯沼、
泥火山その他の低地を採掘、精錬所を澄川に設け焼取釜五枚をもって盛大に稼行した、と記している