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○月一三日、かねて病気のため辞職願を出していた舎長補泉沢恭助が死去したこともあって、遂に寸陰館は

開講以来八カ月で閉鎖されることになった。その後しばらくは、有志の間で寄附金により細々と継続されたが、

四年七月の廃藩置県によって名実共に廃止された。国では未だ教育制度の確立を見ず、ここに鹿角は一時教育の

空白期を迎えることになった。

二、寸陰館毛馬内出張所

寸陰館毛馬内

出張所の創設

いる。

二年五月七日、毛馬内の豊口文平、児玉善蔵、勝又周治、山本喜与志の四名から、寸陰館毛

馬内出張所を開設したい旨の願書が、花輪寸陰館へ提出された。『寸陰館日誌・第三号』に

は「旧藩士桜庭陽之輔元要害屋敷江、寸陰館出張処仰付けられ下置かれ度く、微力ニて寸陰

館江入寮及び兼ね候者、修行仕り候様成し下し置かれ度く」云々との願出があり、役所へ取次いだと記録されて

浅井小魚収集文書の毛馬内寸陰館記録によると開館されたことは事実で、その入費一切を前記四人で負担した

という。もっともその内容は、当初は内藤調一が花輪寸陰館が非番の日、青少年を集めて授業をするといったも

内藤湖

のであった(

)。

南自伝』

寸陰館毛馬内出張所が正式に発足したのは、翌四年六月からである。