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六月、花輪郷学校が秋田本部校の分校として開設された

『花輪小学校百

周年記念誌』

○寸陰館閉鎖後、空白となっていた鹿

角に学校が復活したのである。ただし分校指定以前に開設準備が進められていたらしく、有志が費用を出したと

いう記録がある。

夫修身斉家道を正うするは学問に阿り。古き諺にも人の知を増すは書を読むに不如と云へり。已に江刺県に於て郷学

校を設置、有志の輩勤学候処、当県と相成候以来廃校に立至り歎ケ敷事に候。古今條理文明の際会、人才教育開化の道

須叟も遅にすべからずと雖も、本県に於て未だ学校一定の規則相定まらぬ折柄、今般幸ひに有志の輩開校の遅々たるを

憾み、学費を償う可きの旨を官に告ぐ。依て学校取立、来る朔日より開館及び候間、有志の徒は掛りの者へ一応届の」

入校、三課の内銘々志す処の学課に附修行いたし、他日成立邦家の御用に立候様心掛可き事。

三課素読手習数学

内藤調一

川村左学

右の者共へ助教、副助教申付け候条、当人共へ問合の上入校修行いたす可き事。

壬申六月

(『明治五年・学校関係綴』十和田支所所蔵)

職員としては、この記録にみられるように六月二五日、内藤調一、川村左学がそれぞれ助教、副助教に任命さ

れている。また『花輪小学校百周年記念誌』』には、学校主簿・大里寿、主簿扱・川村左学が任命されたとある。

八月九日には内藤調一が権舎長・一四等准席に、また三日に川村左学・大里寿が学校主簿・一五等准席に任命さ

れている(

『郷学校口記・第一

号』川村元家文書

)。ちなみに権舎長は校長職、学校主簿はそれを補佐する役目である。このほか寄宿

前掲

生の吉田冨治が保長兼算術手伝、阿部廉治が副保長を命ぜられている(

)。