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つぎ博文書院の教授方をつとめ、毛馬内の泉沢氏、内藤氏とも親交があった。維新動乱ののち函館へおもむき、
生業の傍ら儒学による人倫の道を教え、官から賞詞を受けたが、事業が不振で大館へ帰ってきた。
柯山は内藤湖南の漢詩の師でもある高橋松坪と、その父松園の庇護の下に暫く大館にあったが、友人泉沢恭助
の招きにより花輪寸陰館で句読を担当したと思われる。名簿には記載されていないが寸陰館に身を寄せていたこ
とは確かなようで、秋田明徳館で共に学んだ西宮端斉
後の女子師範学
校長、湖南の師
は「明治庚午初秋客干扇田時、旧交石垣
桐山先生在花輪、恨然賦之遙寄呈」と、七言絶句の漢詩を贈っている(
『石垣柯山先生遺稿』大正
九年刊・女鹿氏所蔵
○。
花輪郷学校の廃校後、学校主簿・大里寿はその学才を惜しみ、花輪盆坂の自宅で柯山に漢学塾を開かせた。柯
山の学殖を慕う入門者が多く、大里邸では収容しきれなくなり、のちに塾を長福寺へ移した。
柯山は七年、尾去沢・又新学校の初代校長大森武七の
招きにも応じ、高学年生に四書を講じている。又新学校
の生徒であった内藤湖南は「追想雑録」の中で、柯山の
指導を受け本を借覧したと述べ
「内藤湖南全集
第一四巻』所収
)、後の司
法大臣・川村竹治は「亜州絶句」の序文に「稍長じて石
垣柯山先生の門に学ぶ」と記しており、その学識は鹿角
の青少年に少なからざる影響を及ぼしている。
昭和九年、旧門人達によって秋田市楢山の弘願院に彰
第2図石垣柯山頌徳碑
(秋田市・弘願院)
徳碑が建てられ、除幕式には川村竹治も出席している。