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この伺書を見ると、根本順助は自分の学区取締兼務手当の全額を学校経費に充当して、学校設立を急いでいる。
立遅れている小学校設立に対し、強い督促があったためであろう。
しかし財政力の弱い村々は資金のメドがつかず、学校開設に苦慮した。大湯村の場合、八年一月に県から権大
属乗附弘、滑川篤が来村し「正副戸長、同手伝老名あい詰め、小学校、病院設けられ候儀説諭これ有り」と、強
い督促を受けている
第二小区戸長執務日記」
断片・浅井小魚収集文書
)。
花輪学校の開校
七年一月三一日、伝習学校を卒業して免許を得た川村左学・折戸亀太郎・斉藤麟道の三名
は、帰村後直ちに花輪学校設立の準備にとりかかった。「帰村した三名は二月五日より四
)
十日間、教育手伝志望者十七名に対し教科井に教授法を伝達し、三月十七日花輪村大町村公用宿に於て授業を開
始し、四月二日県に開設届を出した。これは秋田市西根小屋学校に次ぐ、秋田県第二号に当る」(
『花輪小学校百
周年記念誌』
という。
五〇
五
五
四月二五日附をもって認可されたのは、又新学校(
認可番号
四八番
)、毛馬内学校
)、花輪学校
)、久保田学
番
番
五
秋田県教育
校(
)の四校である(
)。このうち鹿角郡内で最も早く実質的活動を開始したのは、花輪学校である
番
史・第一巻』
開設申請書による生徒入学見込数は四〇〇人、学校経費総額四〇八円は郡内最大の規模であり、生徒見込数にお
いては県内第一位であった。ただし実際の入学者数はこれよりだいぶ少ない。
学制にもとづき一一年八月までに許可になった県内の小学校は、四二九校であった。そのうち生徒入学見込数
一〇〇人以上の申請校は二七校で、鹿角は第一位の花輪学校をはじめ、又新・谷内・毛馬内・三ケ田の五校がそ
校
の中に入っている。鹿角の人士の教育に対する熱意を窺い知ることが出来よう。