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小学校の校舎

新しく開校した小学校も、その校舎の大部分は借家や寺院であった。鹿角の場合、明治七~

一年設立の二一校中、民家の借家が一六校、寺院四校、新築が一校であった。しかし大湯

字校は開校後一年余で大円寺に移っているし、花輪学校も恩徳寺を仮分教場として生徒の一部を収容しているの

で、実質的には寺院借用が六校である。維新動乱とそれに続く凶作で村々は疲弊し、新しい校舎の建築までは手

が及びかねたのである。

宅去沢・又新学校の場合は、尾去沢鉱山の援助によって大館・石田孫吉の家を買い受け、笹小屋へ移築して椅

舎とした。しかし資金の調達、解体家屋の輸送などに大変な苦労をしている。

この時の学校建築総支出高四二五円五厘に対し、寄附金は三六二円七〇銭、差引六三円三〇銭五厘不足であっ

た。これは田郡・奈良廣見ほか三二名の三二円四五銭、赤沢・沢出茂八ほか二七名の九円三四銭五厘、元山・工

藤新蔵ほか二七名の九円四二銭五厘、計五一円二一銭の寄附と、未納金取立分二〇円をもって支払っている。大

一〇〇

各三〇

口寄附者の中には、鉱山主岡田平蔵の代理人・槻本幸八郎

○)、職員・桜田忠蔵、阿部恭助一

)など

の名も見える。

又新学校校舎の完成は七年一二月で、その後九年谷内中川校舎、一〇年大里校舎、柴内校舎、一二年元山校舎、

一三年大湯中町校舎、一四年花輪横町校舎、一五年平元校舎、一六年草木校舎と、次々に校舎の建築をみた。毛

馬内学校は九年の五軒町移転の際に四教室を増築し、二一年一二月に新校舎を完成している。これらの建築資金

は、いずれも有志の寄附金と若干の村有財産売却などで賄われた。