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供校社積金規則

第一條社中定員百一名、籤数百壱本とし、掛金は初会より二十一会日迄、毎会金壱円宛持寄る事とす。

第二條集会は毎年四回

八十

〓月とし、月々初の日曜日を会日とす。歳計は年々二月と定む。

第三條毎会当る籤壱本宛差出し、右抽籤の者へ別紙甲号割合帳の通り元締人より相渡、除員するものとす。

但元締人は社員投票にて定むべし。

第四條掛金渋滞する者は社中除員するは勿論、襲きに出す処の金員返戻せぬ定め

第五條積金貸附方は別紙乙号調帳に依ると雖も、右調は金利月壱歩の概算にして、実際施行は必ず之れに拘泥せず。

第六條貸附は必ず動産不動産の抵当を要す。

第七條満会の後、残余の金員は即ち学校資本に供するものにして、右運転利子金を以て永遠維持するものとす。

集会は一〇一回まで予定、その頃までには毎回当り金を払戻し

初回二円、最

終回七三円

しても、七、七九八円が残る予定で

のった。しかし年四回の会では完了は三五年八月となり、これでは所期の目的である学校資金の蓄積、就学援助

には程遠いことになる。この欠点を除くため、一〇年五月には会員九〇名、集会年六回の第二供校舎が作られた。

供校社が学校資金援助についてどれだけの実績を挙げ得たかは不明だが、前掲の資料には「昨十四年より年々

百弐拾円宛、生徒授業(料)を補助せり」と、その活動が報告されている。

花輪忠国社

るた花輪村高屋部落においては、忠国社という形で学校資本金を集めている。高屋学校は学校

雑務掛・佐藤長三郎の奔走によって、部落民に高割りで資本金・資本米を課して七年に開校し

たが、一四年以降は尽忠報国社の運用利益をもって経営資金にあてている(

『明治十四年・尽忠報国受)

取』佐藤家文書

"取』佐藤

家文書

尽忠報国社は旧秋田藩の重臣達が中心となり、秋田市における士族の授産事業として設立した、一種の無尽〓

○。