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各郡へ派遣された視察官・生守格造は、次のような復命書を提出し、当時の実情を余すところなく報告していス

「秋田県史資料

・明治篇下』

)。

夫より各郡内各校を巡視し、致る処学務委員或は戸長、伍長等を召集し、教育令の趣意井県庁よりの達書を弁明し、日

つ後来益々盛大に到すべきを懇諭せり。(中略)

鹿角郡校数十八にして、其他分校一つあり。学務委員の選挙既に定ると雖も、皆昨今の事なるを以て教員の結約、教

則の選定等未だ着手なし。且つ学務委員なるもの三分二は教育令を解せず、故を以て不了解のものには逐條弁明をなし

其他は條中緊要の箇所を弁解せり。各校中、目下盛にして後来好結果を奏すべきは花輪、毛馬内の両校にして、又新

校(

尾去沢鉱

山に在

〓)之に次ぐ。其他村落校に至ては小枝指、小坂の両校を少く可とす。他は見るに堪へず。且つ教員の給料

に苦み減少せんとするの景況ありて、屡々懇諭を加ふ。殊に松谷校には過般より教員なしと云ふ。然りと雖も郡内の人

民質朴温厚にして、能く官令を守り唯命是従ふの風あり。故に能く説諭を容れ、教員の招聘等は大概傭ひ続きにして、

只二、三校交代するのみ。各校の学費は大体戸数と地価とに三七の割を以て賦課し、只資本金の利子のみにて今日を支

へ、賦課金井授業料等を要せざるは長谷川村の谷内学校なり。又各校用ふる教則現今旧に依ると雖も、不日に会議を開

き郡内を一定すと云ふ。但し尋常、村落と二つに区別すと云へり(

本県に於て定むる処

の教則にはあらす

)。又人民の公益と称すべき私立

学校は小坂鉱山にあり。該校は坑業主南部氏の厚意に出るものにして、教・校則、其他教員等完全の普通小学校なり。

なお本文中の松谷学校は、一一年四月に大森武七を迎え開校したが、四九才の武七は間もなく退職し教員不在と

なっていた。

又新・元山両校の休校

尾去沢の又新学校は、学制発令にあたり鉱山の援助によって校舎を建て、授業料は

カ月一銭五厘の低額で発足した。しかるに鉱山が不況となり、九年授業料を一挙

に一〇銭に値上げしたが学校費を賄うに至らず、学校経営は極めて困難となった。元山学校も同様で、『元山小