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回(

有志、学務委員、教員を集会し、授業の得失及び学術勉励の事項を審議討論し、以て生徒の進歩学事の隆盛を図

るにあり」と述べている。第二条から第八条までは役員の職務、選任の方法等を規定し、一一条では一カ年に四

四月・六月

八月・一〇月

)の会日を定めている。

この伺書は郡役所から県へ進達され、県学務課では会則等に別段不都合もないとして、翌一五年一月に許可さ

れた。その後実際に教育会議が発足したかどうかについては資料がないが、川村左学の書留の中に教育談話会の

記録がある(

川村元

家文書

○議題の中には、教則の中に各地の情況により農工商のうち一科を入れること、訓導や学務

委員からの寄附金は学校資金として蓄積すること、師範生徒募集は各郡に割り当てること、小学校沿革誌を編む

こと等、注目すべき事項が多い。

恐らく教育会議設立に対しては各町村の賛成が得られず、結局花輪だけの私的会議である教育談話会が設けら

れ、ある程度活動したものと思われる。

教員と自由民権運動

自由民権思想の普及は、鹿角においても従来の教育体制との間に軋轢を生じた。一十

年四月、教育会議創設に奔走した奈良熊太郎等が、改進党・犬養毅の演説会を準備し

たとして免職・辞職となった(

「創立六十周年記念・花輪小)

学校沿革史』昭和一二年刊

)。

明治十七年四月十二日

訓導奈良熊太郎本職を免ぜられ、安保貞次郎辞職願を提出す。是れ改進党員犬養毅其の他の政客当地に来り演説会を開

くに当り、周旋奔走せしによる。

こらに二〇年頃、自由党党主・板垣退助が星享と共に花輪へ立寄った際、その演説に感動した花輪小学校訓道