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鹿角におけるこの「文明開化」的な事象について、記録の比較的明らかなものを取り上げ、その事始めを記述
してみる。
〓風俗の変化
人カ車
人力車は、一三年前後に花輪の工藤喜太郎が初めて移入し、有名な「太閤さん」こと工藤己之
(
)。
助がこれを曳いていたという。この車はすこぶる美術的なもので、背面に義経・弁慶、五条橋
等の絵が描かれたものであった。伸宿は長年寺下にあった。一五年、六日町阿部粂太郎(荒虎)が伸宿を構え、
営業を始めた。一九年には「人力車挽営業願」が柳田春松と駅伝取締人根市富之助の連名、戸長大里寿の奥印で、
当時の大館警察署に申請されている(
『花輪
町史』
)。人力車挽はその後新町番屋、横町角にもできて流行していった
『〓角の)。
『鹿角の
あゆみ』
人力車は便利な乗物であったが、利用するのは一部の富裕な人々や、急用、公用がほとんどであった。
二七年六月、県教育会出席のため秋田市まで、人力車を使って往復した川村左学の記録が残っている。花輪・
一五二
秋田間約三八里(
」)は、人力車によると片道二日の行程に縮まることになった。その様子は、一日の午前
キロ
六時通運社の人力車で出発し、十二所で車を乗りかえ、正午は綴子にて昼食、午後五時三〇分に能代着、同地宿
泊。二日め、朝に所用を済ませ九時三〇分能代発、鹿渡で昼食、午後五時三〇分秋田に着き投宿している。復路
はなお早く、秋田を五時に出立し、能代で昼食、午後八時には大館に到着し旅宿に入る翌日学校を視た後、九時
二〇分車にのり、二時すぎ花輪に帰宅している(
川村左学『日記』
川村所蔵
)。