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盛輪馬車株式会社」である。同年五月四日、桜山で盛岡市長(代理)も出席して開通祝賀会が催され、翌五口

赤と黄色に塗った馬車が、テトテトラッパを鳴らして開通、ちなみに花輪・盛岡間、料金は二七円であった。

このほか、年代ははっきりしないが、花輪奈良市太郎の「金平馬車」があった。入営する兵士が錦木村神田岱

『鹿角の

で送別の宴を張ったのち、大館へ馬車で向かった(

)。なお、台数の推移は次表に示すとおりである。

あゆみ』

第〓表客馬車台数の推移

自転車

三六年七月東京へ遊学中であった花輪町関達三が夏休みにゴム輪の自転車で東京から帰ってき

た。当時自転車はぜいたくな乗り物で、庶民にとっては高嶺の花であった。

)。

三八年八月小坂町今泉守一の主催で、自転車競争乗会が同町重兵衛平で開催された。県内は勿論、弘前、青李

方面からも参加者があった。

四四年六月花輪、毛馬内、小坂の実業家たち三〇名は自転車隊を組織して、盛岡市内及び小岩井農場を視察、

一二日に帰省している(

『秋田魁新報四四年六月一七日』)

「鹿友会誌』第一三冊

〓』)。

『秋田はじ

大正元年自転車の台数は秋田市一六三台、全県で七一六台(

)というが、同年一二月末の鹿角の台数

めて物語』

は二三台であった(

『鹿角郡勢

班』大正元年

)。

大正

「毛馬内町真景図」(

)には古館跡に「自転車トラック」の施設が描かれていることからみて、大正の初

五年

期にはますます普及し、その競争場が設けられるほどであった。また『鹿角郡案内』(

大正

二年

一には「英米各自