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見聞雑誌』に、二〇年「売店より蝙蝠傘、ケット……買収」との記事がある。ケットと称する赤毛布やトン
ビは明治の半ばに流行し、外套は洋服用で、二四、五年頃二重トンビ、二重マワシは和服用で三〇年頃から多く
用いられていた。
肉食
馬
尾去沢鉱山の鉱夫の間では、ふだんからナンコ
鍋を囲む食慣があった。ナンコはよろけ
肉
冊)の薬として信じられて嗜好されていたので、古くから肉食を受け入れる素地になってい
珪
肺
たと思われる。
『あつめ草』(
阿部恭助、『鹿角市史
資料集第二集』所収
の二年「盛岡へ……注文之牛肉」との記事がみえ、相当早い時期から牛肉を
食することが、鉱山関係者の間で行われていた。しかし鉱山以外の一般家庭では、「牛肉は食うには食ったが……
祖母に庭の隅に持っていって煮ろと云って叱られた」
『毛馬内郷
土史稿』
)との話があるように肉食が普及するまでには、
まだ多くの時間が必要であった。
二八年、町通りに「店を半分貸してそこに新牛肉屋ができた」という(
『花輪だよ
り』第六信
)、四〇年における鹿角郡の
屠殺数は成牛三六頭、馬四九二頭で、全県一位であった。豚九頭で、この頃まだ豚の少ないのが目立つ。またこ
の年の獣肉販売業者は県内一〇六名、鹿角は一一名で、秋田市、南秋田郡と同数であった(
『秋田魁新報四
年二月八日』
七年、第二大区七小区扱所から毛馬内総代中に、「茅屋根相廃し……板屋柾屋根に相改」との
)。
建物
布告がでているが、これによって直ちに茅屋根がなくなったのではなかった。
毛馬内では、士族や農家の屋根は萱葺、町通りの家は大抵柾葺に丸石を上げたもので、それがだんだん大羽
葺-こけら葺、こけら屋根といった-の家が多くなっていた(
『毛馬内郷
土史稿』
)。