テキストを表示
とも全面的にランプになったと考えてもよいだろう。
「瓦斯燈の文字も鮮し」
『花輪だより
第一五信
)とは三九年花輪錦風楼の様子であるが、花輪に街灯のついたのは四四
年のことである。「花輪町にて………佐藤久助君の募集にかかる軒燈は商家、旅人宿、料理店等多数の申込みあり、〓
月一日より点火せるが夜景は今迄の寂寥に引き換え市中の夜景一層の美観を添へ且便利」との記由
『秋田魁新報四
四年八月一六日』
があり、ガス灯以上に見物人は物珍しく仰ぎみ、町通りの明るさに驚いた。
大湯村大湯部落予算によると、四二年に温泉(上ノ湯、下ノ湯、川原ノ湯)点灯、四三年に浴湯点灯を行って
いる。浴湯点灯用ランプは二タ組であった。
燧石・燧金・ツケ木に替わり、当時アメリカともいわれたマッチの使用がいつからなのか、くわしいことはわ
)
からない。
時計
江刺県花輪分局につとめた田中正造の日記によると、三年四月六日「六字起八字出席」
(
『田中正造全集
第九巻、岩波書店刊
)とあり、すでに一部の人の間では時計が使用されていた。
記録の上では、鹿角の時計は八年に毛馬内へ八角時計四つが入ったのが最初である。そのうちの一つを学校で
購入し、時の校長泉沢熊之助は朝は自宅から、夕方は学校から持ち歩いたほどの貴重品であった。このほか、大
湯学校にも開校間もない頃、時計があったという。
二〇年花輪柳田善六方に柱時計が備付けられた(
宮城一杉
『花輪町史』
)。
大湯村予算書によると、二二年役場時計修理、簡易小学校に時計三ケ新調とあるが、毛馬内町予算書によると
二三年に時計修理費が計上されている。さらに同町財産報告書によると、時計は二五年一ケ、二八年二ケとあり、