テキストを表示
鉛筆
一二年八月作成の「錦木村村内社寺明細帳及現境内図面」の境内図面には、鉛筆が使用されて
いる。
ある。
インク
二二年毛馬内村外二ケ村戸長役場予算報告書には、鉛筆で罫線が引かれており、エンピツ一四本を購入したと
教育関係をみると、毛馬内小学校では二二年三〇本、二四年一二本とあり、その頃の学校ではきわめて使用頻
度の少ないものであった。
花輪小学校では三六年度に尋常科児童の紫鉛筆使用を禁じているが、これは衛生面からの禁止と思われ、この
頃になると、ずいぶん鉛筆使用が普及していたことを示している。
四五年当時大湯村各小学校教員に公費で支給される鉛筆は年間三~四本、色鉛筆は一~三本であった。
円藤良三『毛馬内郷土史稿』によると、二〇年頃毛馬内出身の青年(石川寿次郎か青山芳得と
心われる)の手になった海軍大拡張論文は、厚い西洋紙を合わせ巻紙に作り長さ七尺に達する
ものに、ペンで細々と書かれていたという。これは鹿角人によるインク使用例としては初期のものである。
公文書に洋装の墨汁(インキ)を用いることは九年の太政官達によって禁止され、のちに内閣が公文書にもイ
ンクの使用を認めたのは四一年である。
毛馬内小学校では、二二年インキ一〇銭とあるのが初めて、二三年一二本四九銭、三四年赤インキ一五壜四五
銭、黒インキ一壜五銭、ペン軸三本五銭、ペン先八本一〇銭が計上されている。大湯村では二四年インキ及キン
ベル代として八六銭が計上されている。