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新聞は手に入るのが四日目、岩手の新聞は翌朝でなければこないし、秋田の新聞は夕方には来るが電報などの記
事が余り簡単すぎて満足できないなどと言っていた、花輪の人々に大変喜ばれたという一
『花輪だより』
第十一信
明治にも今でいうミニコミ紙があった。一九年の新聞体裁、毛筆書きの「錦塚四季音信」がそれである。毛馬
内での発行と思われるが、現存するのは第三号のみで作者等詳しいことはわからない。
)。
雑誌
。見聞雑誌』には「都の花」(二一年創刊わが国最初の文芸雑誌)の第一号から八号までを一
二年六月に、第一五号から一七号までを二四年七月に読んだと記され、花輪文庫には「少年団
(二一年創刊)の合本があったことが知られている。
三七、八年頃の花輪の書店の様子として『花輪だより』には、戦争雑誌が一番売れ七〇部もでていること、婦
人雑誌も四〇部もでていること、教科書が国定になったため上、下合わせて本屋が八軒にもなり、競争して児童
の御機嫌をとっていること等がみえている。
この「花輪だより」は三七年一一月に創刊され、三九年一月まで月刊一五回、臨時増刊一回延べ一七八ページ
で、日露戦争従軍の花輪出身者に送られたガリ版刷りの慰問文集である。発行は花輪月報会で、当時の花輪の風
俗、経済の動き、人事消息がよくわかる。
このほか郷土人による雑誌としては二四年発行の「鹿友会誌」と鹿友会誌に影響をうけたと思われる四四年発
行の「毛馬内小学校同窓会誌」がある。印刷はともに東京、活版印刷である。
文庫
「秋田県史』(大正版)に「河辺・鹿角ノ二郡、未ダ郡立図書館ヲ有セズ。鹿角郡内ニテハ青
午団又ハ教育会の経営ニ係ル文庫五ケ所アリ」としている。明治期、鹿角には郡立は勿論、私