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神職への復飾
慶応四年四月に神祇事務局から、神社の社僧・別当の復飾が要請された。復飾(還俗)と
い、一度僧になったものが再び俗人にかえることである。これをうけて『奉仕社頭之儀明
細書上』(
金沢
家文書
)には、一昨年別当・社僧などは神主・社人などの称号に変えて、神道でもって勤仕するト
明治三
うに御沙汰があったので、復飾して神勤をしたいことを盛岡県のお役所に申し上げた(
)とあり、直ちに
年二月
神職に転向したようにも見られる。
大日別当の妙光院についていえば、明治二年六月に安倍大和として神職となった。三年正月には改名して安倍
嘉津馬としたいと、三戸県花輪御役所へ届け出ている(
『雑書』安倍
〓家文書
)。また『あつめ草』の三年正月二日条には
当年、別當明光院神主に相改候由にて」とある。この正月から、祭事も神道式に改められている。天台示であっ
『前掲
た大日堂
正式には養
老山喜徳寺
)の坊跡は、復飾した安倍嘉津馬の二男冨太郎が継ぐことになった(
)。
書』
この他に、天台宗では柴内の不動堂の別当、真言宗では月山神社の別当寺である広増寺の住職、花輪の妙蓮寺
の住職がいたが、この時点では神職に転じていない。
修験者の復飾と
修験道の禁止
近世鹿角の修験者は羽黒派に属し、花輪通(上浦)の頭襟頭・慈顕院(三光院)と毛馬内
)(下浦)の頭襟頭不動院・大蔵院(南光院)の三人の下に、二五~三三院が存した。こ
れらの修験(山伏)は、社僧・別当の復飾に関する沙汰によって二年にはほとんどが神職
に転じている。三年になると全く神職に復飾していることが、次の資料(第二五表)によって知られる。
明治二年『花輪通毛馬内通神職修験寺院名面』
田村
家文書
)は、同年一〇月に書かれたもので、一応それらしき
名前で復飾の届けを出している。三年二月、江刺県へ移管されるに及んでの届出の際にさらに改名している。こ