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大工周八と申者に差遣し申し候。三ケ田村源清院名跡右同人願主に御座候。(下略
ここでは二つのことが行われていて、一つは社人(神職)の名跡を継ぐこと、もう一つは修験である源清院の
)。
名跡を別人が継ぐことであった。なお、なぜ社人の名跡を譲ったのかについては、本人が病気であったためだと
思われる
金沢
家文書
五年九月に、政府は修験道の禁止令を出した。すでに鹿角においては、元来の修験は神職に転じていたので、
大きな混乱はなかった。なお、盛岡藩における鹿角の羽黒派山伏の支配は、元禄年中から惣録である自光坊によっ
て行われていた。しかしこの自光坊は幕末には中央で活躍しており、この変革期における鹿角の山伏に直接影響
を与えることは無かったものとみられる。
神職になった元修験と、羽黒山本山との関係が全くとだえた訳ではなかったが、神職への転向によって、これ
まで山伏として民間信仰や庶民生活全般に密接な関係を持っていた、その地位は次第に薄らいでいった。
雑教の禁止
神仏分離のほかに、いわゆる雑教の禁止が引続いて行われた。四年一〇月の太政官布告に
よる回国修行の六十六部の禁止、同じく普化宗(虚無僧)の廃止がそれである。次いで五
年一〇月には、民間信仰である金勢さまが、「実に野蛮の風習」であるとして禁止されている。
さらに六年六月の示達には、御一新以来神仏混淆のことが無いように、たびたび布達したにもかかわらず、合
だに社地内に仁王や仏塔の類が建てられている。或は神殿に仏像を入れ、村端れに鐘道の藁人形を飾り、または
路傍に庚申・観音・湯殿山・太平山・鶏卵供養塚等、いわれなき石碑を建立することは、みな政府の趣意に背く