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た。通称小豆沢の大日堂と柴内の不動堂がそれである。いずれも寛文年間から盛岡の法輪院の末寺となっていた
が、神仏習合の天台両部の社でもあった。別当(住職)の他に社人(神職)がおり、ともに奉仕してきた。
三年の秋田県の調査による「十三年前期陸中国寺院仏堂住職員数表」
秋田県庁
所蔵文書
)によると、鹿角は天台四、
臭言一となっている。天台四とは、おそらく養老山喜徳寺(大日堂)と別当寺妙光院、岩屋山福昌寺(不動堂〕
と別当寺不動院として四と数えたものと思われる。ただし、この調査には疑問があり、それは大日堂や妙光院は
この時点ですでに天台宗ではなくなっているからである。二年に妙光院は神職に復飾し、名跡を二男に譲ったと
されるが、四年には寺としての大日堂そのものが存在していない。大日堂は神仏分離の当初、大己貴神社と称ー
て境内の末社を本殿とし、本堂を遙拝所としている。まもなく四年に本堂を本社として、妙光院も名実ともにな
くなった模様である
安倍
家文書
)。
不動堂の場合は、不動院が復飾せずに天台宗となっていたと思われる。ただ、信仰的には神社として拝まれて
いたらしい。四〇年に発行された『鹿角志』や、二五年頃に書かれた『鹿角郡記稿』にも、神社として
取り扱われている。
また真言宗一となっているが、もし残っていたとすれば広増寺であろう。妙蓮寺の廃寺の時期も明確でないが、
間近な場所に日蓮宗の本勝寺が建立される頃一
明治一
二年
)には存在していなかったとみられる。広増寺の場合も廃
寺の時期は不明であるが、三年三月に書かれた『鹿角郡毛馬内通在町寺院宗旨人別取調書上帳』
田村
家文書
)の中に
次のようにある。
陸中国岩手郡盛岡永福寺門徒鹿角郡毛馬内町広増寺住職