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旧
斥するところとなった。とくに四年一一月
外務卿岩倉具視等を大使として欧米各国に派遣した際、一行
○月
に対し至る所で非難が集中した。
六年二月、ようやく政府はキリシタン禁制の高札撤去を定め、その口上覚書を外国公使に手交した。しかし国
民に対する太政官布告は「従来高札の儀は一般熟知の事に付、向後取除き申す可き事」という文面にとどまり、
第五巻一
キリスト教をたんに黙認するだけのものであった。『秋田県史』
)によると、本県において教会設立
一一四頁
願が県に提出されたのは二〇年以後であり、二〇年一二月秋田東根小屋町の英和学校を会場とする基督教会認可
願が出されたものの、県はまだ基督教は公認の宗教でないので官府で許否の限りではなく、さらに「教会人民私
に設立するは不問に付し置くべき義に付、此段申添え候」と微妙な態度をみせている
結局キリスト教の公認は、二二年二月帝国憲法発布によって信教の自由が認められてからといえる。それまで
の長い間保守的、国家主義的風潮のなかで、信者は苦しい未公認時代を生きぬかなければならなかった。
ハリストス
正教の布教
鹿角に初めて伝道されたのは、ハリストス正教であった。ハリストスとはキリストのロシ
"語的発音で、文久元年(一八六一)のちの正教会大主教ニコライがロシア日本駐在領事
館附司祭として函館に着任してから、次第に隠然たる力を築きつつあった。五年ニコライ
酒井
篤礼
はその布教の本拠を東京に移したが、函館に司祭アナトリィを置いてその後事を託し、翌六年イオアン川股(
が八戸地方に入り、やがてマトフイ影田
郎
孫一
)らが盛岡を中心に、それぞれ布教活動の輪を広げることとなっ
た。彼らは程なく鹿角にも、その足跡を印することとなる。
鹿角に最初の福音をもたらしたのは、一〇年一月出張の三戸郡相内村副伝教者ステファン江刺家其太であった。