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喜太

三年までに九名をかぞえ、この間の伝教者は今村のあとパワエル大川

)、ニホント桶本

)、司祭は山

勝之

徳太

村、パワエル影田

)、モイセイ白岩

〓)であった。なおまた柴平村の最初の受洗者として、二二年九

月のモイセイ朝霧準三の名があげられる。

明治末期の教会

明治期における郡内唯一のキリスト教会というべきハリストス正教会も、日露戦争を契機

として次第にその会勢が弱まり始めてきた。その開戦前後から偏狭な人々によって正教徒

)視する誤まった風潮がでてきたからである。

を露探(

ロシアの

スパイ

第〓表明治末期秋田県内のキリスト教教会

正教会の公会議事録から抄出した資料によると

(

佐々木寛一日本におけるハ=

ストス正教布教史の基礎資料」

)、四〇・四二年の郡

四二年には

内正教会として大湯福音教会

)・花輪

大湯正教会

小坂鉱山銀山

福音教会・小坂正教会(

)の三教会が

町四九番地

あげられている。この頃から郡内正教会は、対外

的には大湯正教会に一本化した届出をするように

なっていたと思われる。上掲の資料にあらわれた

日本ハリストス正教会一六六名は、鹿角郡の総教

であり、その根拠は四一年七月大湯正教会伝教者

問橋省吾の報告であった。その内訳を示すと、第

三〇表の通りである。

(明治四一~大正二『内務部教兵課事務簿』『秋田県史』資料明治篇下から