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新しい美術
明治に入り、中央では近代絵画の潮流がしだいに高まっていたが、鹿角は新日本画にして
も洋画にしてもまったくその黎明期にあった。田中北嶺の子虎二郎
)は父の才
慶応二-
昭和一六年
能をうけついで絵をよくし、花輪の郡役所に勤めたのちも習作を怠らなかった。郡役所でたまたま机を並べたの
がのちの寺崎広業で、画業を志す両人はたちまち意気投合し、二一年平福穂庵を頼って上京した。しかし無断で
家出した虎二郎はまもなく父の怒りに触れて呼びかえされることとなった。その後は毛馬内町助役となり、三三
年から大正五年まで同町長を勤めた。画業は中途にして挫折したかの観はあるが、今日月嶺の作品の多く残るの
は虎二郎の収集の功によるといわれる。
大正元年
他の画家について、『鹿友会誌』第拾五冊一
)にはつぎの記事がある。
一二月
目下小山正太郎氏の畫塾にある武石壮美君は、今春の太平洋畫会の展覧会に「元荒川」「つくし」の二面の
油絵を出品して好評を博した。故田村常太郎君の令弟政四郎君も家業の余暇時々上京して、中村不折畫伯に
就き研究をして居る。美術学校の小泉錦霞君も目下卒業製作に暇がない。本號の「カット」は悉く同氏の竺
になったものである。
武石壮美は、父の住んでいた大湯を若くして離れ、東京に在って美術修業ののち、朝鮮・満洲を遊歴した
『鹿友会誌』
第二一冊
)。文展に出品しているほか、東郷神社附属美術館にその油絵があるという。
(
また田村政四郎は、大正に入って太平洋畫会に属し、活動している。
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