テキストを表示

花輪恩徳寺の句額

明治一四

年正月

は徐来追善のものである。初めに「並松の人はるかなり白

徐来」とあり、次いで春湖や故人此一ら有名俳匠一〇名と行脚人らしき花陽と松斉を

別格とし、それに地元の他石、思山、桂雅、孤清、一閑、松宇、竹雨、鶴皐、宮蛾、杏香、花遊、月松、逸哉、

一葉、はつ女、里よ女、鶯山、笑山、千遊、文友、有竹、湖江、静風、吾来、松歌、草山、〓風、眠水、盛虹、

眺雪、泉所、一眺、楽水、友交が続いている。徐来については此一の門というほか未詳で『花のちり』『槻『集

に入集している。催主友交はその子とみられる。徐来は此一の門下と思われ、此一亡きあと、此一と名前の並ん

でいる芳州に学んでいたのだろう。

右のうち春湖は小築庵、七年教部省より俳諧教導職に補せられ全国をめぐる。孤清は奈良氏、宮蛾は吉田熊太

で臥〓の子、一閑は関久兵衛一

文政九

明治四〇年

)、はつ女

嘉永六ー

昭和九年

)は小田島由義夫人、浩江は金沢元祐、草山はその

天保四-

父玄龍、吾来は川村善太郎、〓風は川村左学(

天保一二-

大正二年

)、一眺は大里寿

、ほかは分明でない。絵

明治三九年

は佐竹永湖である。

花輪円徳寺の句額(

明治一

六年春

春)は思山と蘆川の句をまず記してあるところから、この二人の追善句会とみられる。

一長閑さのあたり見えけり月の影思山居士」、「白萩や日の入るかたをひと風情蘆川居士」。歌仙一巻は思

山と採花女。華陽、松斉を別格として故人含香(

四楳園石田宗

右衛門、大館

ヽそれに花輪の四四人が続く。催主は蘆州、逸吝

である。

思山については未詳であるが、恩徳寺の一四年句額に名のあることから、一五年前後に没したとみられる。蘆

川は風来舎、岩手遠野の人で思山と親交があったらしく、三年没。蘆州は蘆川門で同じ遠野の人。採花女は佐藤