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なけしの鎗の煤たらけ也愛山
"鎗の煤たらけ也愛山香はしき花も御法のまうけにて2
香はしき花も御法のまうけにて楽水
鎌倉のむかしを語る大庄屋眺裂
春のむしろに睦みあう友一苺
絹荷のとゝく案内状来る靜雨(下略
(下略)
また朝暮庵草山遺稿から四句をあげると
殊更に青し初日の海と空(春の部)澄切てちひさうなりぬ後の月(秋の部)
継たてのかをりさらなり辻か花(夏の部)大年も牛はいつものあゆみかな(冬の部)
なお前記の毛馬内とおぼしき一六人は朝霞、三蕉、谷水、幽升、蕗谷、文哉、布白、其雄、鑑明、未醉、如山、
錦里、竹水、梅園、枕峰、雪朗である。花輪のうち一六年の二カ寺献額にでていなかった人として錦郷、道春、
愛山、都斎、望山、春暁、鹿南、好水、如竹、其山、清鴻、竹堂、光斎、靜雨、細泉、枕雲、其文、花扇女、一
学、古愚、桃川の句がある。愛山は大里禎次郎
安政五
明治四一年
)、如竹は関善次郎
明治五-
昭和一二年
)、静雨は小田切猪太郎、
其山は工藤熊太郎、古愚は圓翁とも号した斉藤麟道
嘉永五-
大正一三年
)であり、古愚と桃川はこの句会の幹事であった。
「面影集』によって知られる顔ぶれの多彩さは、俳人草山の交友の広さを示すと共に医家金沢家の力を表わす
ものであった。専正寺境内の大銀杏の下にある金沢家墓域には、「書筆師範」でもあった草山の門下三〇余人の
氏名を刻んだ石棚にかこまれて、墓碑が建っている。それには「散れはてそ見ゆれもみちのうら表草山」と刻
まれている。なお草山の師事した石田含香の句碑は、長年寺に建つ。「朝空に声うつりよしほととぎす含香」
と刻んで、没年の一四年に門人の奈良孤清が造立したものである。