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漢詩

明治に入って、漢詩はなお漢学者や旧士族層の人たちによって、さかんに作られていた。

鹿角においては、毛馬内の内藤十湾、湖南の父子、青山芳得、暁雲

本名

未詳

)、大湯の瀬川

鷲峰、花輪の立山香峰、川村亜州といった人たちが、多くの作品を残している。

調

内藤十湾(

郡)は、詩文を盛岡藩士川上東巌、江賭悟楼

那珂

通高

)に学んだ。前出の『秋田風雅集』のなかで、

毛馬内地区幹事を担当し評言を寄せているのは、その実力を認められてのことであった。花輪長福寺に遊んで、

その庭の京都大徳寺に似ていることに興を覚え、次の詩を賦している。

石奇樹老水冷々無肯風塵侵影形

第一游人眼明処平田十里一峰青十湾(

十湾(

『花輪町

史』所収

虎次

内藤湖南(

〓)は、詩文を初め父十湾に学び、のち綴子教員時代に大館の高橋松坪に添削を乞うたといわれ

筑摩書

筑摩書

る。その多くの詩は『内藤湖南全集』

)をはじめ『明治漢詩文集』(

)、『日本漢詩鑑賞辞典』

房刊

京都教育

角川書

店刊

声)などに収められている。次の「烟臺夜泊」は、杉村邦彦氏

)が明治後半期における代表作とし

大学教授

てあげられたものである。

烟臺夜泊

烟臺に夜泊す

灣頭煙單四芒芒、吹笛何人度水長、來泊烟臺無月夜、不

灣頭は煙單め四芒芒たり、笛を吹くは何人ぞ水を度

憶家郷憶異郷

『内藤湖南全集』第

十四巻二七八頁所収

ること長し、来りて烟臺に泊す月無き夜に、家郷を憶

わず異郷を憶う。

青山芳得(

明治二-

昭和一七年

)は毛馬内の人、海軍兵学校卒。日清・日露の戦役に参加して戦功をたてた。内藤湖南、

川村亜州らと親しく、詩文では梧堂と号した。左は二三年にトルコの遭難水兵を送る為の航海の途上、地中海に