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啄木が鹿角の国へしめした執着の発端は、三三年七月金田一京助から錦木塚伝説の詳細を聞いたことによると
われる。啄木と鹿角を結ぶ縁しの糸は、ほかにも何本かたぐることができる。毛馬内の浄土真宗心光山常照寺
一一世常房
熊谷
条作
〓)の三女カツは、石川一禎の妻となった。すなわちその長男一が、啄木である。また啄木の長
姉サダは、夫田村叶とともに三七年小坂鉱山元山に移ったが、三九年同地において三一歳で病没している。
三四年の夏に啄木が十和田湖を訪れたかどうかについて、いまだに説が定まっていない。近年発見された三四
年七月消印の「十和田の湖に英気を養う」云々の葉書から、『盛岡中学校校友会誌』所載の二首は十和田湖で詠
んだ歌であるとして、湖畔休屋に「夕雲に丹摺はあせぬ湖近き草舎くさはら人しづかなり」の歌碑
昭和四八年・青
森啄木会建碑
が建てられた。この歌が「にしき木」と題されていることからいえば、「湖近き」が必ずしも十和田湖畔でなく
とも、「丹摺」や「草舎くさはら」の形容から錦木塚であってもおかしくないように思われる。
〓一年春三回めの上京をした啄木が、金田一京助を本郷の赤心館に頼り、同宿生活をはじめることになったが、
角川文
その夜のことを京助はその著『石川啄木』(
)に次のように記している。
庫本
寝る段になって、二人で押入から引張り出した私の夜具蒲団が、南部むらさき、即ち、国でいう鹿角むらさきで、国
では、この夜具蒲団に寝ると、病気にかゝらないなど云う、舊い頃からの傅説のある、母が心盡しの夜具だったのを、
石川君は鹿角郡が曽遊の地であり、このむらさきも好きだったので、好い心持になって、一としきり鹿角を偲びなどし
四五年
世に薄幸の歌人といわれた啄木は、二七歳の若さで一
世を去った。少年の日の心を捉えてやまなかっ
四月没
た。
た鹿角の風土と伝説は、その多感な涙によって、さらにいっそうの光芒を増したといわねばならない。
〓のをなま