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の国民党の一部を誘い、新党樹立を計画した。
翌二年一月一七日、東京京橋区尾張町松本楼において、東北人憲政擁護大会が開かれた。在京の東北出身代議
士や院外有志、新聞記者らによるもので、出席者は百余名をこえた。全会一致で「閥族打破は、東北人多年の士
張である。我々はこの際閥族打破の急先鋒となり、あくまで憲政擁護の目的を貫徹せんことを期する」という趣
自の決議をあげている。この大会に、鹿角郡の県会議員豊口竹五郎(
明治三
昭和八
)が秋田県政友会を代表し、県国民
兄代表安藤和風とともに、決意表明の演説を行なった。豊口竹五郎は、明治三二年(一八九九)若冠三〇歳にし
て県会議員に当選、以来再選をつづけ、同四四年県参事会員に就任するなど、県政に重きをなしていた。
さらに同年一月二五日、秋田市青年会主催のもとに同市凱旋座に開かれた県民大会では、県内各地の代表者ら
、五〇〇名が参集し、こもごも憲政擁護、閥族打破を叫んだ。その決議の冒頭には内閣不信任案の提出が掲げ
りれ、本県選出代議士の監視督励がうたわれている。このような大会の開催は、とりもなおさず県内青年層の政
治意識の高揚を意味するものであった。なお、大会後の県民有志懇親会には、豊口竹五郎も祝電を寄せている。
桂内閣打倒の火の手は全国各地にあがり、連日護憲派の民衆が議会を取り巻き、東京、大阪、神戸、京都など
では政府系新聞社や警察、交番を襲った。桂はやむなく世論の前に屈し、二月一一日内閣総辞職を行なった。初
めて民衆の力が藩閥専制体制に一大打撃を加え、内閣を倒したのであった。これを大正政変とよんでいる。大正
デモクラシーの夜明けを告げる出来事であった。
鹿角の動向
仕太郎は総辞職に先立って新政党の樹立を宣言し、国民党の切崩しに成功した。かねて政権へ
の接近をねらっていた国民党からは、政党政治の理想は二大政党の対立にあるという大義名分