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のもとに、同党を脱党して新党の立憲同志会に加入する者が相次いだ。桂内閣の後に、政権を担当したのは薩摩

山身の山本権兵衛であった。政友会は一転して山本内閣協力の態度をとり、世論はこれを藩閥妥協の変節行為

として非難した。

二年八月、県会議員・県参事会員の豊口竹五郎、同じく内田平三郎

尾去

は、北秋田郡の県会議員成田直一

郎(

)、麓貞吉(

)らとともに政友会を脱党した。直ちに秋田獨立倶楽部を組織し、地方自治の健全な発達

と、東北の振興開発のための実行を期するとの趣意書を発表した。これまでの党利党略を排し、東北六県の連合

のもとに、もっぱら実業の発展を計ろうとするもので、その実行の手始めに明石順吉

)らと秋田鉄道株式会

社開業の進捗をはかった。このことは反面、地方資本家の成長を示すものでもあった。

鹿角における鉄道敷設の問題は、すでに明治三〇年(一八九七)以来大きな政治課題として、しばしば帝国議

会に陳情がくり返されていた。同四四年豊口竹五郎らが議会請願委員として上京、ようやく鹿角鉄道に関する請

朋が貴・衆両院を通過し、翌年その建議案が同じく両院を通過した。秋田鉄道株式会社は、二年八月会社設立を

三五・

おえるとともに、直ちに大館花輪間二三哩

)余の工事に着手した。資本金一〇〇万円とし、役員は取締

四キロ

役社長藤田経清、専務明石順吉、取締役嶋村金次郎、豊口竹五郎ほか、監査役は麓貞吉ほか、そして支配人に内

田平三郎が就任した。大正初頭におけるこの秋田鉄道の着工は、鹿角諸鉱山の整備拡大と、十和田湖・大湯温泉

などの観光客誘致を促進する、まさに地域振興の夜明けをあらわす出来事であった。

一年一二月、第一回秋田県青年大会が各郡市代表を集め開かれたことも、当時の世情を知る上で大切なことと

いえる。安藤和風

が議長に推され、秦県知事非難と言論集会の自由を圧迫した当局者の処分要求を決議、