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かつ県費の緊縮要望がなされるなど、きわめて政治的色彩のつよいものであった。この大会で、県青年会評議員

毛馬

として、鹿角郡からは内藤練八郎

)、小笠原勇太郎

が選ばれている。秋田魁新報の「うめ草」欄に

「一昨日秋田県青年会の発会式を挙げられたが、来会の諸氏は郡市に渉る青年有力家で民設県会でも開かれたよ

うであった」との評言がのるほど、地方青年の政治への関心が急速な高まりをみせていた。

このような青年の動向をおそれた内務省は、すでに同年九月末地方青年団体の政治運動、町村政への容喙など

を警戒するよう、府県へ秘密裡に通牒を発していた。

毛馬

大正三年の冬、鹿友会員中島織之助

)は、青年の動向について、同会々誌に一文を載せている。すなお

ち、郡役所書記らが語るところでは、鹿角の青年は一般に生意気になり、近ごろ町村長を弾劾しようとする者、

町村役場の改新を叫ぶ者は、皆無経験の青年であるという。どこの青年会でも経営上の困難は、青年会対町村役

場あるいは青年会対小学校教員との問題である。「役場に青年会の勢力を怖れ之れが頽衰を希望する習あり、学

校に青年会を当局に対する彼等の成績上の道具たらしめんとの野心あり」として、大正デモクラシーの波が大き

く青年層の覚醒をよび起こし始めた当時の世相の一端を批判している。

激しい政党対立

入正三年三月、山本内閣は海軍の収賄汚職によるいわゆるシーメンス事件に対する、国民

のはげしい非難と抗議行動のなかで総辞職した。同四月清浦奎吾の組閣失敗を経て、三週

間余りのちようやく第二次大隈重信内閣が成立をみた。大隈内閣は、立憲同志会を与党とするものであった。

この年七月第一次世界大戦がおこり、一カ月後に日本参戦となった。軍部にとり軍備拡充と中国進出の、よい

口実が生まれた。とともに大隈内閣は、当時の議会が与党立憲同志会の議席を野党政友会がはるかに上まわって