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五月花輪青年会は機関誌「花輪青年」を発刊し、さかんに郷土の振興と人心の覚醒を唱えている。この「花輪青
年」は同一〇年「青年乃鹿角」と改題して新聞紙法に基く発行となり、昭和二年「鹿角時報」と改め本郡の代表
的な言論機関となった。またほとんど同時期の大正五年一二月、同じ花輪青年会を母胎とする愛友団から「愛友」
誌が生れた。初めぜんぶ手書きのささやかな回覧誌であったが、やがて活版刷となる同一二年ごろから急速に労
農的社会思想の啓蒙誌に成長していく。
大正に入ってからの青年たちの政治意識の向上はめざましく、その純粋さと行動力は、旧思想の政治家を辞易
せしめるものがあった。このような世相の進展に神経をとがらした内務・文部の両省は、訓令をだして、青年会
の陥り易い弊害に野心家の利用や指導者の人選難、思想侵蝕などをあげ、しきりに政治活動への傾斜を警戒して
る。立前の上では、青年にふさわしい使命は、その地域における良風美俗を発展させるいわゆる社会改良問題
にあるとしながら、国家社会の矛盾は容易にそれを許さなかった。すでに軍部の影響下にある政府は青年会を軍
事的に利用しようとし、政治家は選挙に役立てようとするのであった
当時第一次世界大戦下という状況のなかで、鹿角郡一〇カ町村を通じ、すでに青年団体数は四五をかぞえ、そ
の団員数は三、六八二名という状況にあった。七年五月文部・内務両大臣は、全国青年団体に対し再び訓令を発
した。その要点は、青年の教養とは公共の精神を養い公民たるの性格を陶冶するにある、そのため新刊図書の選
択を慎重にし、健全な識見を広め、体力を増進して、国家の活力の要素たるべしと強調している。当時の思想的
潮流をつくりつつあった自由主義・労農的政治思想から巧みに目をそらさせようとする意図が、ありありとうか
がえるものであった。