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この年一二月の新聞は、鹿角の凶作地として宮川村の窮状をとりあげている。宮麓その他奥沢等は全くの凶作
どん
で、農民はさかんに楢の実
)を拾い集め、多いものはすでに三石に達した。楢の実は皮をむき、澁味を除
ぐり
くには笹を混入し、これを煮て飽をつくる。そのまま食するかまたは米に混入したりする。しかし近くの尾去沢
鉱山が次第に発展し、小坂鉱山にも職工や人夫の需要が多いので、飢餓に迫るといったことは万々ないであろう、
と報じている。
また翌年一月渡辺郡長談として、鹿角の平年作は三万八千石だが、本年は一万四千石に減収した。それも悪く
税米で殆んど食料に堪えない。もっとも惨憺たるは宮川、大湯、小坂等で、宮川では握飯を結ぶことができな
いため、弁当を持てない生徒が多い。また地主と小作人の間に毛引の談判が纏らないうちに、早くも現品そのも
ののなくなったものもある。宮川の阿部藤助氏の如きは平年八百俵の収納米があるものの、早くも断念して八十
俵に承諾したというが、それでもよいほうで、その他は全く収納米のない地主が多い、との記事が載っている。
大正初期の日本経済は、日露戦争の特別立法による高い税金がそのまま継続されていた上に、
生産の沈滞
ノメリカ・ヨーロッパの経済恐慌の波を受けたため、非常な不況にみまわれていた。当然のこ
とながら、鹿角地方のような零細な生産活動であってさえ、容赦のない不況の影響を蒙り、まったくその活力を
毛馬
失なう有様であった。立山弟四郎
)は、当時の郡の生産事情を左のように慨嘆している
内
独り農業計りではない、工業にあれ、商業にあれ、総じて生産界は如何と云うに、旧来の郡の名物なる茜紫は、一
もなく世の中から褒めらるゝに拘らず、年産額数十反を出づることは出来なくなって居る。地織木綿は一時機屋も多数出
来て大分に幅を利かせたが、織物税の設定以来税務属の来るのが五月縄いとて、一向機の音を聞かなくなった。代りに