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会の質実な自給生活的慣習がうすれ、華美な商業活動にとりこまれていくことへのつよい警戒心がうかがい知ら
れる。
慢性的な不景気のなかで、追打ちをかけるような冷害は、いきおい農村を窮乏の生活におとしいれ、そのこと
はまたこのような農村の購買力を直接あてにする花輪、毛馬内など郡内商業地に、そのまま深刻な影響をおよぼ
すことになった。例えば、二年の凶作後の商況について秋田魁新報は、花輪の「二十三日は旧暦詰市日なりし
も、例年よりは三分の一程より人出なく、各呉服店並びに浅利雑貨店にては競うて売り出をなせるも売れ行き思
わしからず、二十五日の旧暦大晦日には商業殆んど皆無にて、何れも嘆声を洩らし居り」と報じている
衣びく不況は、大正に入ってさらに深刻化の様相を帯びるようになった。生産の停滞と
尾去沢争議おこる
仙格の低落は、いずれの産業分野にも共通した現象であった。鉱山においても同様で、
銅価の高騰はあったものの、設備投資の拡大や世界大戦前夜の先行き不安のため、それほど好転の兆しがみえな
かった。このような経済界全般の状況は、大正四年の前半まで続いた。
そのなかにあって尾去沢鉱山は比較的安定した雇傭関係を保っていた。当時約二、〇〇〇人を使役していたが、
うち土着鉱夫が三分ノ二以上を占め、その他臨時使役夫は主として近傍の村々から雇用した。それは数百年来の
古い鉱山なればこそできることといわれていた。その具体的な給与法について、同地小学校教員石井哲五郎がお
およそ次のように記している。
当鉱山は、多年一工(一日出稼)に対して、飯米として八合宛、一升十三銭の安値で下渡し、また手足まといの老幼年
に対しては、座食米と称して一升十三銭一日四合以上年令に応じて売渡していた。そのため案外平穏で飢えに倒れた者の