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派兵が行われた。初めの総兵力は二万八、〇〇〇人、うち日本は一万二、〇〇〇人の協定であったが、この年

月までに日本は七万三、〇〇〇人を派兵し、極東一帯の要地を占領した。日本の独占的支配の姿勢にまずアメ

リカが反対し、連合国内部の足並は揃わなかった。またシベリアの革命・反革命両勢力の抗争状況も複雑をきわ

めたので、イギリス、フランス、アメリカなど連合国は相次いで武力干渉中止、共同出兵打切りを決定した。

日本は単独で駐兵継続の方針を固めた矢先、九年三月黒龍江口のニコライエフスク

)においてわが国の守

備隊がパルチザン

革命軍

手)との戦闘に敗れ、領事や隊長以下の兵士、民留民七〇〇余人が全滅し、捕虜とな

ゲリラ

た一二二人も五月パルチザン撤退の際に全員殺害された。これを尼港事件とよび、七月日本は北樺太を占領しウ

ラジオ、ハバロフスク駐兵を発表した。その後現地のはげしい抵抗と、内外からのシベリア出兵に対するきびし

い不信と批判に堪えきれず、一一年一〇月ついに全シベリアからの日本軍撤退を完了した。北樺太駐留軍の撤収

はそれより遅れ、一四年日ソ国交回復後であった。

このシベリア出兵にあたって、秋田第一七連隊に出動命令のでたのは、終結に近い一〇年一二月のことであっ

た。連隊は船川港をシベリアにむかって出帆し、翌一一年一月ウラジオストックに上陸、直ちにニコリスク市の

兵舎に入った。四月にクロンシタッスカで赤軍パルチザンと交戦したが、五月ウラジオストックに上陸した第八

師団に復帰するため同地に移動した。六月政府はシベリア撤兵を声明し、一〇月第一七連隊の帰還も無事行われ

た。

かくて巨額の戦費を費しながら、まったく得ることのない「無名の師」に終ったシベリア出兵に対し、政府と

軍部に対する非難はごうごうたるものがあった。