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お大正七年は幸い豊作の出来秋となった。
労働運動の発展
入戦によって本郡の尾去沢、小坂、不老倉など諸鉱山は未曽有の好況期をむかえ、労働者
の雇傭数もまた増大した。しかしまもなく戦後の不況期に入り、とくに銅価の低落がいち
じるしかったので事業の縮小、人員整理などに直面させられた鉱山の苦悩は深刻であった。
大正八年にはいると、小坂鉱山は露天掘の終了が間近に迫り、三月職・雇員二九名と鉱夫九七〇名解雇の人員
整理が行われ、七月には七号炉の作業も廃止された。山内には重苦しい空気がたちこめていたが、八月一九日突
然元山採鉱夫一、〇〇〇名が休業し、賃金の四割値上げを要求した。話合いによって一応収まったかにみえたが、
二四日工作課約四〇〇名がストライキにはいり、冶金課約五〇〇名も参加した。翌日採鉱を除くほとんど全員二
千数百名が加わり、二六日には採鉱夫の一部も合流する気配をみせ最悪の事態も懸念されるに至った。結局臨時
手当を二倍半とする線で妥協が成立し、争議団は解散の上おのおの職場に戻った
この争議について、秋田魁新報八月三〇日付では三面の大半をあててくわしく経過を追うとともにおおよそつ
ぎのように論評している。
秋田における鉱山労働者の大部分は土着人が占め、いわゆる渡り坑夫渡り職工はいちじるしく数が少ない。その結果供
の鉱山にあり勝ちな殺伐とか結党とかは比較的稀で、全国的に容易にみることのできない美しき風習である。したが
各鉱山経営者は、余りに彼等が温和なるに信頼し過ぎ社会政策就中資本対労働問題に関しほとんど無関心であった
好適例が今回の小坂鉱山における同盟大罷業で、早晩このことのあるべきを予期しながらも当事者は彼等をみくびりなん
ら為すことなく時日を過ごしてきた。これは一般各鉱山の大いに反省すべき点である。小坂は従来労働者に対し厚遇優待
をなすとの評があって、いかなる場合も不平や騒動などを耳にしたことがなかったが、それですら時代の変移に一歩