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四、普通選挙の実現

最初の政党内閣

全国的に広がった米騒動と民衆意識の高揚、シベリヤ出兵を決した軍閥内閣打倒の声にお

これて、寺内正毅内閣は総辞職した。そのあとをうけ大正七年九月二九日政友会総裁原

敬による内閣が成立をみた。この内閣は、陸・海・外の三相をのぞく全閣僚が政友会員であるため、わが国初の

政党内閣といわれる。原は岩手県出身の、爵位をもたない最初の平民宰相として国民の期待をあつめたが、陸海

軍予算の膨張をゆるしたため、やがて軍代内閣の悪評をうけるに至った。

原敬の指導による政友会内閣がわずかに面目を保つところがあったとすれば、八年三月に可決した衆議院議員

選挙法改正によって納税資格条件を一〇円以上から三円以上に下げ、かつ小選挙区制を採用したことであった。

選挙権の拡大をはかった、この選挙法改正は、すでに〓原の火のように広がりつつある普通選挙要求の声に、一

応妥協したものであった。しかしこの改正によって普選実施を望む声は一層国民運動的な高まりをみせ、九年

月労働・思想団体など四三団体による全国普選連合会が結成され、同二月関東関西普選期成労働大連盟の結成、

東京で一一一団体・数万人の普選大示威行進などが相次いだ。その機先を制し原敬は、衆議院において普選法案

討議中抜打ち的に議会を解散した。

これより先、原内閣のもとで、八年九月に本県の県会議員定期改選が行われた。その選挙戦は政友会・憲政会

の二大政党の激しい主導権争いとなった。野党憲政会県支部における鹿角郡のおもなメンバーは、支部評議員に

選出されていた奈良庄兵衛、奈良庄太郎、馬渕匡次郎、諏訪富多の各氏であった。県議選には山本修太郎(〓

)、