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第二次護憲運動

大正一一年六月、政友会の支持による海軍大将加藤友三郎の内閣が生まれたが、官僚と書

族院議員を中心としたため、世に超然内閣といわれた。同首相の死去により、翌一二年九

月第二次山本権兵衛

海軍

大将

〓)内閣が成立した。関東大震災の翌日誕生したこの内閣は、震災復興や治安維持に多

くの苦悩をしいられたが、同年一二月虎の門事件

難波大助、

・摂政を狙撃

)の責任をとって総辞職した。

また一二年九月の県会議員選挙は、郡内に絶対多数をしめる政友会と対抗心を燃やす憲政会の、はげしい争い

のなかで進められた。七月二九日、憲政の神とよばれる革新倶楽部の犬養毅

が、議員大口喜六らを従え遊

説のため鹿角に入った。毛馬内駅頭で歓迎をうけたのち、自動車で花輪に到着、高瀬旅館に小憩し花輪劇場の演

説会に臨んだことは特筆に値いすることであった。この選挙で山本修太郎、大里周蔵

)が当選し、山本は県

会議長として敏腕をふるうことになった。大里も県参事会補充員に選ばれている。なお選挙権の拡張により、〓

の時の本郡有権者総数は四、三九五人となっていた。

三年一月枢密院議長清浦奎吾によって、貴族院議員を中心とした組閣が行われた。またも政党を無視した官

僚の内閣成立をみるに至り、政友会・憲政会・革新倶楽部の三派有志は、直ちに清浦特権内閣打倒運動を開始し

た。これが第二次護憲運動の発足である。ここにおいて政友会は、高橋総裁の内閣反対派と、床次竹二郎らの内

閣支持派に別れ、床次らが脱党して政友本党を創立するにおよんで分裂した。憲政会はもともと野党の立場に徹

し、革新倶楽部は、解党後の国民党の大部分が主力となって結成されていた。

〓年五月、第一五回総選挙において、護憲三派が大勝を博し、清浦内閣は総辞職に追いこまれた。次いで憲釣

会総裁加藤高明が組閣を行い、第一次加藤内閣いわゆる護憲三派内閣が成立した。