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のため花輪駅へ向う罷業団員と、これを阻止する同志会員との間に衝突がおこり、組合側二名が検束された。七
日、右翼団体建国会の赤尾敏ら三名が入山し、鉱夫組合の掃滅を宣言した上、組合事務所に近い人家に菊水慢幕
を張りめぐらして、争議妨害の運動を始めた。
すでに五〇余日にわたりながら何の成果もなく、一〇二名の馘首者をだした罷業団は、一〇日午後一一時ころ
四手に分れて喊声をあげ、一手は製煉所を襲撃しようとした。しかし総動員の同志会に阻まれ、処々に小競合を
演じて、不穏の空気が全山にみなぎった。暴発の危険を察知した警察は、団の責任者として加藤勘十、高橋長太
郎ら一七名を検束した。一二日午後釈放された加藤は、組合幹部と協議の結果、ついに争議打切りを決した。
一三日午前四時加藤と中島鉱業高野重役との間に結ばれた条件は、組合側の一方的惨敗を意味するものであっ
た。すなわち「解雇者は復職不可」、「解雇手当は旅費として出すこと」、「組合員なるが故に差別待遇をせぬこ
と」、付帯条件として、外来幹部は一四日までに退去すること、被解雇者は一五日以内に平穏に退去すること
解散式・演説会・宣伝ビラ・広告・示威運動等一切しないこと、加藤は責任をもって実行させ直ちに退去するこ
と、という峻烈なものであった。
争議が惨敗に終り、さまざまな影響を残したが、なかでも鉱夫組合から二五〇余名の脱退者をだしたことは、
組合運動の大きな打撃となった。鉱山もまた、同志会の組織や建国会など思想団体の導入について、世論のきび
しい批判を受けることとなった。
花輪愛友団のこと
大正一五年の尾去沢争議について、当時鉱夫組合員だった黒沢市太郎は、後年つぎのよ
つに思い出を語った。「自分が電気課に入った若いとき、理想的な目ざめを与えてくれ