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たのは、電気課次席の職員、川村保という人であった。この人が自分たち若い者に階級的な目ざめにみちびいて

くれ、働く者の階級は資本家に搾取されているから団結しなければ駄目だ、というようなことを教えてくれたの

であった」。また同盟罷業の発端となった一〇月八日花輪劇場での煙害問題批判演説会において、井上領吾が開

会の辞を述べ、かつ弁士として煙害問題をとりあげ雄弁をふるっている。川村保、井上領吾ともに花輪愛友団の

幹部であった。

その頃鉱山職員であった村山健三郎は追憶談として、「大正一四年の春頃尾去沢鉱山で、多数の従業員に危険

思想の印刷物を配布回覧させている者が居るとの噂がひろがり、鉱山の警羅がひそかに調査したところ、私と電

気課の川村さんがその不穏分子と判明しました。印刷物は愛友であったのです」と語っている。時に、村山は愛

友団幹事長をつとめていた。そのほか、一五年争議で罷業団代表の交渉委員に選ばれ、第二次争議では同志会書

記長としてその中心にあった川又敬孝もまた、愛友団員であった。なお間もなく川村、村山は東京の三菱本社へ

転勤となり、川村はいったん赴任したものの退職し、村山は赴任せず花輪で家業の果樹園経営を継いだ。

大正に入って、各町村ごとの青年団活動は活発になっていた。しかしそれらは官製的傾向がつよく、指導者の

ほとんどは学校教員であった。知識欲に燃えあたらしい思想を志向する青年たちは、別にサークルをつくり同人

的な動きをするようになった。はじめ文芸や修養を主としていたが、普選問題、経済恐慌、相次ぐ労働争議、小

作争議などの発生に刺激され、しだいに尖鋭化の方向をたどるものもあらわれた。

花輪愛友団は、大正五年に花輪小学校高等科を卒えた同級生数人によって発足した。初めペン書きの同人誌

愛友誌」を回覧し合っていたが、同八年からガリ版刷りとなり、一二年からは活版印刷にかえ誌名を「愛友」