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とした。とくに団を名乗ったのは、同志的結合の強さを表わすためで、毎年花輪小学校卒業生から優秀な者数人
を選んで入団させその式には厳粛な宣誓が行われていた。
入正一四年一月現在の愛友団名簿には、異色なメンバーとして「団友」に小田島信一郎、石田
団員群像
央一郎ら、郷外団員に小笠原忠堂、佐々木彦一郎、奈良正路らの名がある。小田島信一郎は東
尿大学法学部卒、関東大震災で一時花輪に帰京し、護憲三派の革新倶楽部に所属し活躍した。石田英一郎は花論
奈良家の出である石田八弥男爵の嗣子、京都大学経済学部で社会科学研究会員となって活動し、大正一五年一月
拘引・拘留され、同二月爵位を返上、同九月治安維持法違反等で起訴された。昭和三年いわゆる三・一五事件〓
連座し、五年の禁固刑に処せられた。同九年刑期満了で出獄、東京で遠縁の佐々木彦一郎と再会しやがて文化人
類学者の道を進むこととなる。大正一三、四年ごろ在京愛友団員で上京した石田の歓迎会を開いたが、その時の
印象を石木田善蔵は「物静かな話しぶりで、どこにあの強靱な革命思想が潜んでいるのか不思議な気がしてなら
なかった」、「そこここの物かげに特高の刑事が何人も隠れていて、春風駘蕩の感じの英一郎さんの周囲とうら
はらにぴりぴりと張りつめた空気がいっぱいで、異様な雰囲気だった」と、のちに述懐している。
小笠原忠堂は愛友団結成の当初の発起人、のち上京して東洋大学東洋哲学科を卒業、兵庫県尼崎で教職につく
『愛友』に数多く寄稿しているが、その第十年第八号
大正一
四年
)では「盟契十周年を迎へて-無産政党樹立と組織
的啓蒙運動-」と題するアピールを掲げている。のち昭和一一年尼崎本門法華宗の学林教授に就任した。佐々木
彦一郎は花輪小学校卒業後広島県呉市の叔父に引取られ、同地の中学から仙台の二高を経、大正一五年東京大学
理学部地理科を卒業した。わが国人文地理学の開拓者といわれ在学中からしばしば『愛友』に寄稿したなかに