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同一四
「鹿角回顧」(
大正一三
年一月
)、「自然科学より見たる人生」
同一三年
一二月
)、「科学者関達三様」
)、「農業と社会科学」
年四月
同一四
年八月
〓)などがあり、新知識の情報を供給している。
奈良正路は、花輪の準備場をでて曙小学校に二年勤務し、札幌師範を大正一一年卒業ののち北海道北見で二年
間訓導をつとめた。上京して中央大学法科に入学、のち師の平野義太郎に隨って法政大学専門部に移る。『愛友」
への寄稿は大正一三年一月に始まり、同一四年一〇月終刊までほとんど毎号続け、「社会法学の立場から」(〓
一四
年一
月起、五
回連載
土)では左翼的な立場から花輪町まぐさ場問題などを取りあげ、新しい法律運動としての社会法学を提唱し
小沢三
いる。奈良は在学中から花輪の農民運動にかかわり、『秋田県社会運動の百年』
には次のように紹
千雄編
介されている。
仕学中、花輪町の自主的な独立青年団・愛友団に参加し啓蒙活動にあたり、この愛友団を背景に大正十五(一九二六
年九月、花輪農民組合(日農加盟)の結成をはかり、さらに同年十月、農民組合とともに日本鉱夫組合尾去沢支部の発会
とそれにつづく尾去沢鉱山総罷業の支援にあたった。昭和三(一九二八)年、全農南鹿(曙、宮川、柴平、花輪)連合会
を結成し、また全農柴平村乳牛支部(当時人員一五名)の指導にあたったが、昭和四年ごろには東京に転住した。
上京後は法律活動に専念し、無産者階級、農民、婦人など弱者のための大部な実践的法律書を昭和一一年まで
に一六冊を出版した。そのなかでも『入会権論』
昭和六年
万里閣
)などは名著といわれている。
岩
なお大正一四年一月現在の郷里在住団員として安保芳雄、小田島軍八、栗山
)正次郎、黒沢武男、関清太
泉
即、中島耕一、根市賢蔵、山谷昌男ら三七名が名を連ねている。