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農民組合の誕生

小坂鉱山の煙害に苦しんだ細越の農民たちは、団結して鉱山交渉に当るため、大正一三年

一二月日本農民組合小坂支部を結成した。煙害闘争の応援に来郡した日本農民組合川俣清

音、可児義雄、加藤勘十らの指導によるもので、本県最初の農民組合結成であった。これより鉱山争議と農民組

合の煙害闘争は労農提携の形で協力し合うこととなった。

郡内各町村の農民組合は、大正一五年後半になって次々と結成されていった。同年七月一五日付青年乃鹿角の

「夏日熾烈」欄に、過日愛友団主催で花輪劇場に開かれた農村批判演説会は稀有の盛況を呈し、沢田芳雄、川俣

清音らの熱弁が人々を動かした結果、川原町に農民組合設立の運動が始められた、と記されている。この演説会

が、おそらく花輪農民組合のできる契機となったものであろう。ついで、九月一五日付同紙に「農民労働党演説

会の盛況/窓からなだれ込む聴衆」という大見出しでつぎのように報ぜられている。

死般結党式を挙げた許かりの農民組合花輪支部は、北海道の大会よりの帰途、県内を巡回中だった農民労働党の幹部を

迎へて、愛友団後援の元に九月七日午後五時より花輪劇場に於て宣伝大演説会を開いた。十銭の入場料を徴したに係らず、

花輪町各部落は勿論、宮川、曙、尾去沢、柴平等より聴衆引も切らず、定刻前既に満員となり無慮千二百人と注せられ、

空しく引返したものも少くはなかった。

その開会の辞を農民組合花輪支部長黒沢由五郎が述べ、講演の前座を同じく花輪支部丸山仙太、農民組合錦木

支部長米沢岩吉がつとめた。講演者は川俣清音、奈良正路、加藤勘十、今野賢三、宗道太、前川正一で、閉会の

辞は井上領吾であった。奈良正路、井上領吾は花輪愛友団、この時すでに花輪と錦木では組合結成を終えていた。

同年一〇月に始まった尾去沢争議には、農民組合花輪支部の応援が大きな力となったことは前述の通りである。