テキストを表示

なお九月一五日付青年乃鹿角の「動静」欄に、諏訪富多の肝いりにより大湯の農民組合が出来上ったそうである、

との記事もみえる。

農民組合運動が活発となるなかで、一五年一二月一六日大館町大館劇場において秋田県農民組合連合会が発足

尾去

した。その執行委員として鹿角から奈良吉五郎

)、黒沢由五郎

)、米沢岩吉

)、多田喜一郎

)、沢田

芳雄(

〓)が選ばれている。しかし中央で労働農民党が分裂し日本労農党、社会民衆党が派生したことの影響を

うけ、鹿角では日本農民組合の曙村松谷支部、同三ケ田支部、尾去沢三ッ矢沢支部などが日本労農党に入った

昭和二年一月一六日毛馬内町毛馬内座で日本労農党北鹿支部創立大会が開かれ、本部から加藤勘十、川俣清音笠

が出席、小坂、錦木、七瀧、新斗米、尾去沢、三ツ矢沢などの地方代表員参集のもとに委員長米沢岩吉、書記長

沢田芳雄を選出した。

一方、労働農民党も組織固めを行い、農民組合花輪支部を中心に、同年一月二六日鹿角支部の創立にこぎつけ

た。秋田魁新報二年三月二四日付では、鹿角郡一〇カ町村のうち宮川村を除いて殆ど農民組合支部の設立をみた、

と報じている。奈良正路の回顧によると、昭和二年の頃花輪とその周辺の農民は奈良の指導のもとに労農党の組

合に結集され、曙村では黒沢、石鳥谷と柴平村では乳牛の運動が盛んであった。花輪は今泉の田中与助が農民組

合長で、川俣や可児が日本労農党への参加を勧誘してきたがそれを拒否し、花輪だけは労農党左派を守っていた、

としている。

小作争議

至国的に労働運動の高揚、農民組合の結成がすすみ、地主に対する小作人の組織的要求行動す

るわち小作争議が多発するようになった。鹿角の場合、本県最初の結成である日本農民組合細