テキストを表示

越支部(

小坂

一や尾去沢鉱山争議の際の同花輪支部の活動にみられるように、鉱山争議と連動しながら、その煙

害・鉱毒水による農作物被害の賠償を求める特殊な形で活発化していった。一方、地元においても第一次大戦後

地主の土地集積が目立つようになり、自らは農業経営にたずさわらない寄生地主、所有農地のある町村に住まわ

ない不在地主が多くなっていた。

農民組合の名のもとに、初めて小作米減額要求のおこったのは大正一五年一二月のことであった。新聞報道に

よると、一日午前九時から花輪農民組合員の三〇名が五手にわかれて各地主を訪問し、不作につき小作料の四割

減免、余桝制度の廃止、俵代差引きという三項目について嘆願した。その後も組合側は代表委員をあげて連日地

主個々へ陳情をくり返したので、地主側は二一日花輪町役場に地主会を開いて対策を協議した。役場前には一〇

○余名の組合員が集まり、その成りゆきを見守った

二五日、まず大地主の関善次郎側が組合の要求を入れたので、これにならって解決をはかる地主が相次いだ。

関善家の了解条項は、花輪町上中島以下二三部落は二割減・同一本杉以下八部落は三割五分減・同堪忍沢以下二

部落は区域

八部落は五割減のこと(

、俵の改良費は本年は保留のこと、余桝は二俵につき三〇銭返すこと等であ

の意味か

った。

この結果について新聞は「自覚した花輪の地主」の見出しで、次のように評している。花輪小作争議は、一一

約四マ

七名の地主に嘆願書を提出し交渉を重ねつつあるが、四畝歩(〓

)一駄(

〓)、五畝歩に八斗という他にみら

ール

れぬ高い小作料の場所柄だけにその成行は世間注視の的になっていた。すでに六〇余名の地主は組合の要求通り

解決し、なんら紛擾を起こさぬ稀にみる争議といわれているが、このように円満解決にむかった原因は、まず地