テキストを表示
主が不当小作料であると自覚したことと、いまひとつは毛馬内町、大湯村の地主対小作人関係が温情主義によっ
てまったく反感を生じていない有様であることにつよく刺激された結果である、としている。
この時期中央政党の分裂により、農民組合もまた内部分化の過程にあった。県内でも、鹿角は日本労農党最大
の勢力地と目され、その入党数は柴平一四、芦名沢三〇、毛馬内一七、錦木一八、三ッ矢沢三七、三ケ田未定、
尾去沢四八〇、小坂一八九で、労働農民党の花輪二八〇と入り乱れていた。やや遅れ柴平村小平四〇名、大湯村
草木一三名も組合に加入した。中央では昭和二年三月、日本労農党支持者によって全日本農民組合が結成された。
二年一二月、柴平村柴内の全日本農民組合員など四、五〇名の小作人は、毛馬内町の立山、大里、勝又等各地
王に対し、二二日より連日減収による小作料減額の嘆願運動に入った。地主側は、作柄は悪くない、一般に金肥
を使い過ぎる傾向がありその尻をもちこまれても困ると、この要求をはねつけた。また花輪町の小作人も同様の
減額運動をおこしたが、理由なしとする地主側の態度を崩すことはできなかった。これらの嘆願は個別の面接に
終わり、全日本農民組合・日本農民組合の組織行動はとられなかった
南鹿争議
二年五月中央においてはさらに日本農民、全日本農民両組合が合同し、全国農民組合が結成さ
れた。同年一二月、全国農民組合南鹿連合会の名により、畑作最高四割・稲作三割と二割の軽
秋
減を主とする嘆願書を各地主にだし、一三日にはリーダー三浦雷太郎
)ほか約三〇名が花輪町関善次郎方に
田
至って交渉しようとした。関方では第三者の介在と団体に対しては絶対に談合しないと拒否し、花輪署から警官
五名が出張し警戒にあたった。組合側は次に同町石木田新太郎方、阿部百助方へむかったが、いずれも面会の必
要なしと拒絶された。さらに毛馬内町大里巳代治、石川正治等の大地主に対しても要求したが、今年は豊作であ